雨が降るとノスタルジックになる現象に名前をつけたい
小学生の頃の話をしよう。
子供の頃ってなにかと自由であり我儘だ。
私もその通り、ごくごく普通の子供として育ってきた。
ある日。小学校に行きたくなったか私は学校を休んだ。
親に無断で。もちろん学校にも連絡をしているわけがない。
静かな平日の時間が過ぎる感覚を肌に感じながら家でひとりでいた。
悪いことをしている罪悪感が大きく、普段拘束されているものからの開放感はほんの少しだけ。
胸にひっかかる何かを感じながら時間の経過を感じつつ過ごしていた。
いま思うと、小学校側は何もしていなかったのかな。
だって、連絡もなく休みって事件に巻き込まれている可能性はゼロではないわけで。
緊急連絡先として親に連絡とかしていたんじゃないかな。
しかし親から何か言われたことはなかった。
わかっていて言わなかったのか。それとも学校側から何も無くて知らなかったのか。
比較的厳しくなく、私の意見を尊重してくれるスタイルだったので尚更わからない。
これを突き詰めて解明していくのは野暮だし今更感のある話題だ。
謎は謎のままにしておこう。
自分がいなくても世の中はまわる。学校や仕事などだ。
だが、自分がいないと悲しむ人も世の中にはいる。家族や親戚。
よくわからないが、モヤモヤっとこのことについて考えさせられた2017年10月6日。
金曜日。雨が降っている。そして気温も下がってきている。
それにしても小学生が中学生になってから10年後には社会人として働いているのか。
時の流れはなんてはやいのだろう。10年間が短いか長いかは人それぞれだが。
ついこの間まではこれぞ子供というくらいに騒いで遊んでいた子が10年後には社会人として日本経済に加わり生活をするようになる。
10年か。長いようで短い。
まずは1年1年。1日1日を過ごしていきたい。
ちなみに「旧」を「1日」と読んだネタがあるわけだ。旧中山道を「いちにちじゅうやまみち」とね。
今日は降っている雨の如く、思いついたことをダラダラと書き連ねていった。
私の思考そのまま、なにもまとまっていない。